学生時代の思い出

memories

大阪府立北野高等学校

池田から十三までの駅伝大会
松岡茂雄(卒業50周年記念文集『咲古稀』から)

北野高校時代の想い出はいろいろあるのですが、やはり陸上競技関係が主になります。

昭和26~28年当時のグランドは、陸上部、野球部、サッカー部、ラグビー部、ハンドボール部が入り乱れて練習し、放課後はいつも混雑していました。400メートル競走の選手だった私は、グランドを一周と少しまわる300メートルの練習がメインで、毎日四~五本は走っていました。

その度に野球のバッテリー間を走り抜けるのですが、不思議に怖いと感じたことがなく、野球部の諸君も共存に気を使ってくれたのだと思います。その頃、後に神戸大学野球部のエースとなった穀米宏くんが親友でした。

ところがある日、100メートルの直線トラックの上で、ハンドボール部の上級生に邪魔だと突如ビンタを食らいました。当時の林校長は暴力沙汰があれば、善悪にかかわらず即退学と公言していましたので、殴り返さずグッと耐えました。

今から思えば、グランドをボヤボヤ歩いていた私が、それと気づかぬまま練習の邪魔をしていたのでしょう。でもやはり、叩かれたほっぺたは痛かった!

今では考えられないことですが、一年生の冬、池田から十三の学校までクラス対抗の駅伝大会がありました。私は、池田の警察署に出かけ、道路利用の申請をしました。

スタートは池田駅前だったか布役所前だったか忘れましたが、一、二年計18組が入り乱れて国道176号線(通称産業道路)を14、5キロ駆け抜けるのです。

自動車がほとんど走っておらず、荷馬車があった当時でしたから、許可をもらいにいった池田警察署の小父さんはニコニコしながらハンコをくれました。

さて、当日、私は一年九組高木学級のアンカーで、三国の橋の上で待ち
受けていると、なんと我が組が二位でやってきました。

先頭は二年生。サッカー部のキャプテンがアンカーです。差は100メートル近くあったのですが、三国から十三まで三つほどあった陸橋を越える間に差がどんどん詰まり、とうとう十三大橋の手前で抜き去って、そのまま堤防沿いに校庭へ入りました。

林校長は、『一年生が優勝とは!」と絶句していました。優勝チームとして全員がバッジをもらい、誇らしい気分になりましたが、駅伝大会はこれが最後で、翌年からは中止になりました。

淀川大橋と長柄橋を渡って淀川の堤防を12キロほどグルッとまわる全員参加のマラソン大会もありました。これも一年生のとき一回だけのイベントでしたが、陸上部が上位を独占しました。優勝は長距離専門の富永君、二位は1500メートル走者の植田君。三位が400メートル専門の私でした。

当時の体育は50メートルプールを泳ぎ切らないと点が付かない、という平石先生の宣言でみんな必死に泳ぎました。

今と違ってトレーニングが非科学的だった当時は、陸上選手は泳いでいかん、練習中も水を飲むなという時代でした。水に浮くのがやっと、呼吸の下手な私は、顔を水につけないまま、平泳ぎ(犬掻き?)で何とかゴールに辿り着きました。

競技選手としては大して実績がない私ですが、口惜しい出来事が一つあります。一年生の秋、大阪府の秋の大会の最後を飾る1600メートルリレーで私は第一走者を務め、トップでバトンを引き渡しそのまま優勝したのですが、北野陸上競技部史には二位とかいてあります。

競技部の記録日誌が紛失し、編集を担当した先輩が私の原稿を勝手に訂正したので、彼の思い違いなのですが、今回の編集者もこんな事がないよう、気を付けてくださいネ。

さて、三年二組は豪傑が揃っていました。みんなから金を集め、真冬にプールに飛び込んで見せた川原文彦君、家出を繰り返してはフッと現れる吉澤光之助君がその代表で、吉澤君は森鴎外訳のゲーテ『ファウスト』やロレンスの「チャタレー夫人の恋人」(原書)をくれました。

その部分を探して『チャタレー』に読みふけったため、英語力がつきました。吉澤君に感謝!

もう一つ。ピアノの名手で男子生徒のマドンナだった楠本(旧姓塚原)さんに声をかけて戴いて、北野創立120年の第九演奏会でコーラスのテノールパートを歌いました。

同志社グリーのソリストで、後輩の森君がパートリーダーでした。彼は到軽な人物ですが声が素晴らしく、大学時代から合唱を始めた私は恥じ入るばかりでした。

しかし同窓会の谷君がプロデュースした記録ビデオを見てビックリ!練習風景の中に、大きく口を開けて歌う、私の顔のアップがあるではないですか。見てやってください。

(この時の体験が刺激になり、今では二週間に一度、オペラアリアや歌曲を先生について個人レッスンを受けるようになり、現在まで続いていますが、コロナで中断に追い込まれました。)

得意レパートリーはカンツオォーネの『カタリ、カタリ』『彼女に告げてよ』、オペラ『トスカ』のアリア『星は輝いていた』などです。YouTubeに乗せていますので一度聴いてやってください。

大阪教育大学附属池田中学校

大阪師範学校(現在の教育大)は池田と平野の2校舎があり、池田の附属中学は戦後間もない昭和22年に開校され、私たちはその翌年入学の3期生(1期生は校舎を転用した別校の入学生)、附属小学校以外からも生徒を初めて募集しました。私は北豊島小学校から親友の木下武くんとともに受験、合格しました。校舎は現在と異なり、通称「城山」の上にあり、堀を渡って通いました。急ぐときは裏口から急な階段を上ったものです。校舎は後に建て増しされましたが、運動場は狭く、運動会ははるか遠くの教育大のグランドを利用していました。

同級生前田勘治くんの文集「ちょっといい話」掲載のスケッチ

生徒に考えさせた附中の昭和二十年代教育
第三期生 松岡茂雄(附中創立50周年記念文集『皐城』から)

私が附中に入学したのは戦後まもなくの昭和二十三年、いまから四十七年前のことでした。

神風が鎌倉時代の元寇の時のように吹いて敵軍をやっつけると教えられていたのが、天皇のいわゆる玉音放送があったとたん、軍国主義コチコチの小学校の先生が、「この戦争は負けると思っていたよ」と教壇でおっしゃって、子供心に唖然とした思い出があります。

附属小学校からでなく、地元の北豊島小学校から附中に入学すると、すべての授業が新鮮でした。英語は毎日一時間、週五~六時間の授業があったと思います。

英語の教科書はジャック・アンド・ベティでした。FとV、LとR、KとD、PとBの発音など一人ひとり徹底的に教室で練習させられました。

「このテープを聴いて、ネイティブの発音をまねしなさい」という、現在の一部中学校の授業とは、先生の熱意が違ったように思います。

私が習った東田先生は、あとから聞いたことですが、もともと英語専門の先生ではなかった方のようです。その先生が自らも学びながら、懸命に指導して頂いた姿に、いまも頭が下がる思いです。

当時の附中は、新しい教育の実験校ではなかったかと思います。音楽の授業では、松村先生の指導で、中学生が何と、ヘンデルのハレルヤコーラスを歌いました。福島先生の数学の授業では、座標の概念を生徒自身が発見するまで、徹底的に学級討論をしました。

理科でも生徒の研究発表が盛んでした。私は、地震の震源を、縦波と横波の到着時間の差から計算する方法を発表しましたが、クラスの誰も理解してくれませんでした。いまでいう一種のイジメでしょう。しかし、理科の島田先生は、休憩時間に私の理論を優しく聴いて下さいました。

課外活動では、演劇部で原田瑛子さん(二期生)が演出を担当し、宝塚歌劇の台本でシェイクスピアの「真夏の夜の夢」を上演しました。私は妖精の王、オベロンに扮しましたが、宝塚歌劇場から借りた衣装がとても重たかったのを記憶しています。

運動は、陸上競技で四百メートルを走っていました。中百舌鳥の競技場で出した記録は相当後まで、附中記録として残っていたと聞いています。

一番印象に残っているのは、卒業式で総代に選ばれたことです。附小から上がった同級生が総代になるものとばかり思っていました。コツコツと足音が響くように革靴を履くのだよと、アドヴァイスを受けました。

住所の関係で本来は池田高校に進学するべきところ、越境で北野高校の受験を希望しました。学校としては、いろいろな事情もあったように聞いていますが、快く受験を許して下さいました。

私の心に残る附中は、生徒の個性を大事にし、育てた、理想的な教育実践校だったように思われ、先生方に感謝の念で一杯です。

国立神戸大学経済学部

進学について漠然とした考えを持っていなかった私は、就職に有利な神戸大学経済学部を受験すると決めていました。北野高校卒業時、思いがけず学年総代に選ばれ「東京へ行かなかったのか」と言われましたがその気は始めからなく、専門課程では金融論の権威で政府の委員もなさっていた新庄博先生のゼミに入れて頂きました。在学中はグリークラブの部室に入り浸り。友には恵まれました。ゼミなりステンの多くは銀行に就職しましたが、私はまた何となくメーカーを選びました。卒業論文は景気循環論で有名なアルビン・ハンセンの『アメリカ経済』原書を取り寄せ、彼の貨幣論を紹介しました。

慈愛の人、新庄先生
新制六回生松岡茂雄(『ミネルヴァ』新庄先生追悼号から)

新庄先生が音楽をこよなく愛しておられたことは、広く人の知るところである。

神戸大学グリークラブのマネージャーや部長をしていた私は、毎年十二月のリサイタルのたびに招待券を先生にお持ちした。

日頃から古典音楽に親しんでおられる先生に、学生の拙い合唱が面白いはずはない。しかし、先生は必ずお顔をみせて下さった。

私たちの就職時期(昭和32年)は、いわゆる鍋底景気のドン底だった。世間の就職難を他所に、私は先生のご推薦のおかげで、久保田鉄工(現クボタ)に採用され、老母を安心させることができた。

その後十年を経過、感ずるところがあって独立したが、先生は、新庄会でお目にかかるたびに近況をお訊ねいただいた。

確か、ご存命中の最後の会で、ささやかな成功を「とうとうやりましたね」とお喜びいただいた時、私の目からは、不覚にも涙がこぼれそうになった。

先生は、真に慈愛の人であった。