ダリと愛妻ガラの真実
ダリの最も有名な作品は時計がぐにゃりと曲がった≪記憶の固執≫1931年でしょう。ダリはガラが用意して外出した食卓のカマンベールチーズが溶けているさまから想を得たと言われています。またガラはダリに科学的な知識を与えていたようで、相対性理論が関係するとの話もありますが、ダリの故郷であるカダケスの風景や幼児の記憶が合成されています。

ガラはユダヤ人の血を引くロシア人で1894年生まれ、1904年生まれのダリの10才年上で義父から進歩的な教育を受けたインテリでした。スイスのダヴォスのサナトリウムで詩人のポール・エリュアールと出会い、結婚して一児を得ています。エリュアールは画家のマックス・エルンストと親しく、三人は性的に交わる平和的な三角関係でした。

1929年当時、ガラはパリのシュルレリストのグループで唯一の女性でした。映画『アンダルシアの犬』や≪春の最初の日々≫でダリに興味を抱いたシュルレアリストの一団がこの年、カダケスを訪問しましたが、その中にポールとガラが娘を伴って加わっていました。
ガラは画家ダリの特殊な可能性を見出し、積極的に接近、性的な関係を結びます。ポールと娘はパリに戻り、ガラはカダケスに独り残っていました。ガラとダリは後に結婚するので、ダリがガラをポールから略奪したと書く向きもありますが、私は逆にダリがガラに取り込まれたと考えます。

ダリは少年時代に父の書斎で見た性病の挿絵を見て、女性性器に嫌悪を抱いていてガラに出会うまで童貞だったと告白しています。自慰しか知らなかったダリをガラがものにしたいきさつは第1回パリ個展の出品の一つで推察できます。

ダリは1930年に、男女あるいは男性同士のオーラル性行動を描いた絵を連発しています。≪泉≫1930年はその一例です。

ダリは父親から勘当されて生活手段を失い、パリでガラと貧乏暮らしを始めます。その窮状を救ったのはガラが旧知のシュルレリストたちでした。ノアイユ侯爵夫妻の仲間12人がゾディアック(十二星座)というグループを結成し毎月1枚ダリの絵を購入することを約束、ノアイユ夫妻も≪陰鬱な遊戯≫を高額で買ってくれました。
ダリはピカソの旅費援助を得てその後ニューヨーク入りを果たします。長いパンを頭に乗せて下船する姿はマスコミの注目を集め、ダリはタイムズ誌の表紙を飾り、一躍時の人になります。金の計算に弱いダリを助け、財政を切り盛りしたのはガラでした。パトロンに恵まれ、リッチになったダリをその頃NYにいたブルトンはSalvador DaliのアナグラムAvida Dallars(ドルの亡者)と称し嘲りました。
ガラはダリの有能なマネージャーとして働く一方、性的不能を自認するダリとの生活に満足していなかったようです。年下のロックスターを愛人にしたり、ダリの絵の重要なパトロンのモースを不倫に誘ったりしています。
ダリはそのようなガラを聖女として若若しく描き、尊び続けましたが、最晩年には考えに変化があったようです。


ダリは1968年、ガラの居住用にプボルの古城を購入しました。ダリ自身はフィゲラスに住みましたがプボルのガラを訪問するときは予約が必要でした。ガラが愛人を引き入れているプライバシーを邪魔しないためでした。ダリとガラは城の地下に墓を並べてつくりました。二つの墓の間には穴が開けられ、死後も手を握れるようにしてありますが、葬られているのは1982年にポルト・リガトで死にプボルに遺体を移送されたガラ一人。1989年に死んだダリの墓は遺言でフィゲラスのダリ劇場美術館の地下にあります。
フィゲラスのダリ劇場美術館のらせん階段にはピラネージの版画≪牢獄≫のコレクションが多数飾られています。ダリは最晩年、ガラとの関係を一種の牢獄と考えたのかも知れません。

私はダリ晩年の版画を十数枚所有しています。その中の3枚はダリとガラの離れられない結びつきを暗示しているかのようです。




プボルのダリ美術館へ行くのは少々不便です。田舎の駅に途中下車して後はタクシーで往復。おかげで老齢の運転手さんから興味深い話を聞けました。情人のロックスターを引き入れるのにガラが用いたキャデラックを運転していた、そのキャデラックやダリがガラに贈った白馬の剥製があるとか、ダリとガラが並んだ二つの墓はダリの分が空だとか。狭い入口から城に入るとその車や馬が眼に入ります。
