美術史トピックス

消された黒猫とゴッホの自殺?

ひろしま美術館ゴッホ『ドービニーの庭』

Black Cat Mystery

ひろしま美術館所蔵のゴッホ『ドービニーの庭』鑑賞は、この美術館を訪問する最大の理由の一つと言っても過言でありません。ゴッホ自殺の一か月前に描かれたこの絵は、一時ナチスのゲーリング元帥が所有していたなど数奇な運命をたどり、いま私たちの目前にあります。

ゴッホ『ドービニーの庭』1890年、ひろしま美術館

実は、構図がほぼ同じでこの絵の2週間ほど以前に描かれたもう一枚の『ドービニーの庭』がありスイスのバーゼル美術館が所蔵しています。

ゴッホ『ドービニーの庭』1890年、バーゼル美術館蔵

この2つの絵を比べてみるとすぐ気づくのは、画面左下方に黒猫のあるなし、そして右下にサインのあるなしです。ここでは「黒猫のあるなし」について述べてみます。

ゴッホ研究家の小林英樹(こばやし ひでき)氏は、1999年刊行の『ゴッホの遺言』で、「黒猫」はゴッホが自身をなぞらえたもので、2枚目として描かれたひろしま美術館の『ドービニーの庭』に黒猫が描かれていないのは、経済的なサポートを得ていた弟テオの一家にこれ以上の負担を掛けないため自ら姿を消すという「遺言」であるとの推察を発表され、翌年日本推理協会賞を受賞、それをベースにNHKがドキュメンタリー番組を制作放送し大きな関心を集めました。

テレビ番組を見て小林氏の著書に目を通していた私は、大阪大学文学部の研究生になった2001年早々、ゴッホ研究で日本の権威である圀府寺司(こうでら つかさ)助教授(現教授)に感想を述べたところ、言下に「あれはオークションカタログに掲載された写真に、ちゃんと猫は写っている」とし「黒猫を消したのはおそらくこの絵を一時所有していたシュフネッケルと言う人物と考えられる」と小林氏の言を否定されました。私はこのことをインターネットで紹介しましたが、誰かの手による掲載妨害が一時あったものの、著者からは無視されました。

『ゴッホの遺言』が出版されて9年後、2008年にひろしま美術館はX線検査の結果、当該の部分に塗りつぶされた黒猫が存在していると発表しました。小林氏はこの発見の結果を踏まえ、前著『ゴッホの遺言』の記述に手を加え『完全版ゴッホの遺言』としてを2009年に発表、自説を修正されましたが、黒猫自体はゴッホがテオの家族をおもんばかって彼らの面前から消えゆく自己を表現していることに変わりはないと主張しておられます。

小林氏はまた、画面左中央に描かれた女性らしい人物が幼児を抱いているようにみえるがこれはテオの奥さんヨーとその子ではないかと推論されています。興味深い見解ですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

依頼を受けAmazonにこの本の書評を掲載しました

(圀府寺先生ならではの素晴らしい教養書)
圀府寺先生は私が20年以前、65才にして大阪大学文学部研究生となった時、親しく西洋美術史のご指導を頂いた恩師です。ギリシャ、ローマからポスト印象派まで親しく手引きをいただくとともに大学院のゼミに出席を許され、美術史研究のありかたの手ほどきを頂きました。留学先のオランダではゴッホ作品にキリスト象徴であるの太陽が如何に描かれているかに注目し博士号を取得され国家から表彰されておられるゴッホ研究の第一人者です。在学中、ひろしま美術館所蔵の名品『ドービニーの庭』は同一主題の別作品に比して黒猫が欠けていることから、これは弟テオの家族から自分の姿を消すことを遺言として伝えたと言う話がNHKの特別番組で放送されていました。私が先生に、その放送を見た感想をのべたところ、先生は言下に「オークションカタログの写真には黒猫がちゃんと描かれている。あれは誰か、おそらくシュフネッケルが塗りつぶしたものだろう」と否定されました。後年、ひろしま美術館によるレントゲン検査が行われ、塗りつぶした絵の具の下に黒猫の存在が確認されました。少年の頃からゴッホに関心を持ち研究を重ねられた成果を、私たちに惜しみなく、そしてわかりやすく提供されたのが本書。入門者はもとより美術史家にとっても執筆の模範となる高著です。(ついでながら、本書には上記『ドービニーの庭』に関する記述はありません。怪しげな説に対する専門家の矜持でしょう。)