広告と販促

大阪コピーライターズクラブOCC

1993年12月刊『大阪コピーライターズ物語』関係ページを再録します。

表紙
occ2
occ2

企業内広告制作者プラスアルファが 安酒場に集って、ワイワイガヤガヤと

DDB風の広告をつくりたいとひりつくような思いをこめて

 大阪は守口の片田舎でアメリカの雑誌をパラパラめくっていた広告青年が、自分の気に入った広告を切り取り始めました。何と驚いたことに、その殆どは、DDBというNYの一小広告代理店のADとコピーライターの作品。

 こうして当時三洋電機宣伝部の福田成美氏(現日本SPセンター副社長)は、DDBをブレーン誌への寄稿を通じて紹介。日本におけるDDBの発見者となったのです。

 次いで福田さんの元上司である西尾忠久氏が名著「フォルクスワーゲンの広告キャンペーン」を世に問い、クリエイティブな広告は企業経営に強烈なインパクトを持ち得ることを実証。私は西尾さんへのファンレターを通じて、オグルビーの「ある広告人の告白」を共訳する機会に恵まれ、それと同時に福田さんを紹介されて、終生の友人を得たわけです。

 DDBの広告コピーの翻訳研究を通じて得た広告制作の文法を、福田さんは三洋電機の広告に応用。私は久保田鉄工(現クボタ)の企業広告でトライ。その第1号が大阪電通のAD橋本五郎さん、コピーの石黒正武さんに制作して頂いた「ハイヒール戦争」と称する作品で、このチームは電通八火賞を受賞しました。

 では、私もディレクションだけでなく、と自分でコピーを書き、ビジュアル発想まで手がけてみたのが写真の作品です。日本経済新聞掲載の全7段の企業広告シリーズとして制作。この作品は昭和39年OCC賞銅賞。次ページの作品は昭和40年TCC新入賞を頂戴しました。

倉庫一杯の売れない自動販売機を在庫一掃したダイレクトメイル

 昭和30年代末の私が西尾さん以外に私淑したのは、DMの専門家深山一郎先生であり、OCの事務局長だった積水化学の井上課長(現日本SPセンター社長)でした。

 広告は販売に貢献することが第一目的であると、熱っぽく語る井上氏の洗脳を酒場で受け、DMのレスポンスはコピーで劇的に変わるという深山先生の教えを守り、「無料」というマジックワードをDMに活用してみました。

 製造してみたもののさっばり売れない牛乳自動販売機。発想を180度転換して、企業の人事厚生セクション対象に「無料で利用できる厚生施設ですよ」と訴求しました。

 結果は、まさにドラマ。倉庫の床が抜けるばかりにあふれた在庫は企業から殺到する申し込みを乳業会社に自動販売機設置先として紹介することで一掃できました。昭和40年(1965年)OCC賞DM部門の金賞を頂戴したキャンペーンです。

ネーミング作戦と設計資料準備で新建築材料の市場導入に成功

 新幹線の新大阪駅や、地下鉄のプラットホーム支柱として使われていた「遠心力鋳鋼管柱」をビル建築材料として販売するプロジェクトがあり、遠心力のGと柱のコラムを組み合わせて「Gコラム」と名付けてキャンペーンしました。(名付け親は私ですが、ネーミングの手法を用いようと最初に提案したのは当時の同僚上田耕平氏です)

 テレビCM、新聞広告など、任されていた企業広告予算を傾斜配分で投入し、市場導入に成功しました。建築デザイナー向けの設計コンペ開催、構造設計者のための設計マニュアルや設計事例集の刊行など、思いのままに若造がキャンペーンを仕切れた、古き良き時代。いまでも新聞の経済欄で「コラムの市況」を見つけると懐かしく思います。

(掲載文章は原文のまま)